​©ダイバーシティ工房

【vol.1】本当の親じゃなくても話は聞ける-途上国の問題を解決したかった私が小さな塾を継いだ理由-


代表不破のインタビューを全5回にわけてお送りします。

  • 父が創業した小さな学習塾を継いだ経緯

  • どのように事業をつくっているのか

  • 第三創業期である今後5年のビジョンと課題

  • ダイバーシティ工房が大事にする社会との関わり方

を知ることができる内容になっています。ぜひご覧ください。


代表プロフィール


不破 牧子(ふわ まきこ)

NPO法人ダイバーシティ工房代表理事。社会福祉士・保育士・日本語教師。学生時代にオーストラリアを始め20カ国以上を旅し世界の教育について学ぶ。商社、大学勤務を経て、2010年よりひとり親家庭や発達障害の子どもを対象にした事業を開始。



ダイバーシティ工房の前進である「自在塾」は、代表不破の父が自宅の敷地内に小さな学習塾をつくったことから始まりました。不破自身もこの塾の卒業生です。


自在塾を創業した不破の父(写真左)


「雰囲気が本当にほのぼのとしていて。夜食におにぎりを出したり、たこやきパーティーをしたり、卒業祝いですき焼きを食べたり。


勉強が苦手な子。先生や友達とうまくコミュニケーションが取れない子。家庭環境が複雑で、お金に苦労している子。


そんな子どもたちを父は当たり前に受け入れていました。


『本当の親じゃなくても話は聞ける』とよく言っていたんです。


友だちが自分がいないときでも家にやって来て、おしるこを食べながらうちの親に相談をしたり、家出してきてうちに1週間泊まったりしていたこともあったんですよ。


父親も母親もそういうことを自然に受け入れていましたね。」


創業当時の自在塾


塾を継ぐつもりはあったのですか?


「正直なかったですね。実は、大学2年生のとき大学を1回やめているんです。


入りたいサークルも部活もなく、打ち込める勉強もない。親からお金を払ってもらって、往復4時間かけてまで行く価値がある場所だとは思えなかったから。


朝まで営業している居酒屋でアルバイトして、そこで出会った人たちと朝まで飲んだり、カラオケに行ったり。1年くらいそんな生活をしてましたね。」


大学を中退したころの不破(写真左)


気づくと大学時代や高校時代の友人たちとは話があわず疎遠になっていた。


「『このままじゃいけない、ここにいたら自分はダメになる。自分で今の生活を変えないと、誰も変えてくれない。』


そう思って、小学校の頃からずっと行きたかったオーストラリアへ、日本語教師の資格を取って働きに行こう!と決意しました。


それからは日本語教師の資格が取れる学校を探し、英語の学校に通い、アルバイトを変え、付き合っていた彼氏とも別れ、生活を大きく変えました。」




文字にしてみると簡単に生活を変えられたようですが、背景には後押しをしてくれた人が何人もいたそう。


「英語の学校は日中に授業があったので、クラスメイトは主婦や企業の役員、個人事業主の方。


大学時代には出会わなかった人たちと出会い、授業の後にはいつもみんなでご飯を食べに行きました。


そこで私が大学をやめた理由を話すと、ある会社の役員の方が

「自分で考えて判断して、行動した。おかしいと違和感を持ったことに対して行動したのは私から見たらとても誇らしいことだよ」

と言ってくれました。


その言葉は今でもよく思い出すくらい、ふと迷った時に自分の背中を押してくれます。」



無事日本語教師の資格とった不破はオーストラリアで働き始めます。


「日本文化や日本語を教えるインターンとして、小学生から高校生の授業を受け持っていました。


特に高校3年生向けに受験日本語の指導をしていました。


そこで感じたのは、自分の学生時代と比べると、オーストラリアの学生たちはとても自立していること。


みな自分の得意なことを考えた上で、複数の外国語の中から日本語を選択して学んでいたり。


歴史の授業ではなぜ戦争が起きたのか話し合うんですが、各グループで戦争に参加した国の立場になって意見を言うんですよ。


日本の学校では経験できないような学び方でした。



不破の旅は終わらず、さらにその後、オーストラリアで親しくなった友人とインドやカンボジア、ベトナムなどアジア諸国を数ヶ月に渡って、バックパッカーすることに。




「旅の中でNGO団体の職員や日本語教師をしている人と出会い、たくさん話をしました。


そこで日本語教師という仕事の限界を知りましたね。


この仕事は、数年先の子どもたちの生活は変えるかもしれない。


でも、そもそもその国の経済が発展して日本語を使う機会がないと、意味のないことになってしまうと痛感しました。


現地のNGOで働く人の話も印象的で。


『給与が低くてなかなか日本に帰国できない』

『日本に戻って新たな生活をするだけの蓄えがない』


高学歴で良いことをしているのに、お金が理由で選択肢が制限される。


もったいないし、自分は絶対に嫌だなぁと感じたことをよく覚えています。」



ーもっと国の経済発展に貢献できるような専門知識を学びたい。

そう強く感じた不破は、23歳で大学へ復学。卒業後、26歳のとき商社に入社します。


「就職活動のときは、大学で海外の貧困や開発経済を学んだので、自分が旅した東南アジアの経済発展に貢献できる仕事がしたいと思っていましたね。


海外で人の生活を変えられるような大きな仕事をしたいというマインドで、東南アジア関係の商社に入社しました。


でも、そこでも違和感があって。


部内でイジメもあったし、女性が働きにくい、人を人と思わないような組織だったんですよね。


自分が大切にしていたことと、その仕事が違うんじゃないかと疑問をもつようになっていました。」




そんな時に書店でたまたま手に取ったソーシャルビジネスの本を読み、感銘を受けた不破は一念発起。会社をやめて自分で事業を立ち上げることにしました。




「とはいってもはじめは『教育のことがやりたい』という漠然とした思いがあっただけ。


『今の日本の教育ってどうなってるんだろう』と、気になって調べてみました。


学生時代は途上国が抱える問題にばかり目がいっていたけど、実は自分が住む日本にも子どもの貧困や学校が抱える問題ってたくさんあって。


『自分がやるべきことは身近にあるんじゃないか』と思うようになりました。


『日本の教育問題を解決するにはどうしたらいいんだろう』と考えているとき、『そういえばうちの父親、塾をやってたな』って思い出したんです。


父に塾のことを聞いたら『今は生徒が2人しかいなくて、もうやめようかと思っている』と。


それを聞いて『もったいない』と感じたんです。


ー学校というシステムや家庭の中からこぼれ落ちてしまう子どものサポートをする人がいないなら、自分がすればいい。


父親のそのスタンスも一緒に、塾を引き継ごうと思いました。


収入が少ない家庭でも通わせられるような低料金で、不登校や学力不足の子どもたちを受け入れる方針を決めて宣伝すると、パラパラと申込みがあって。


それから1年もしない内に口コミで評判も広がって、塾の経営も再び軌道に乗りました。」


【vol.2】目の前の人の「生きづらさ」に向き合って-事業の始まりは社会課題ではなく出会った人たちの生活にある- を読む

vol.3】【vol.4】【vol.5